五十音小説 い

テーマ 「犬」

 

 思い出されるのはお母さんの優しさと美味しいミルクの味。兄弟達と遊ぶと自然と笑顔になれた。四角く切り取られた青い空。ぐちゃぐちゃになった何かの上で僕はお母さんと兄弟を呼ぶ。

 気がついたら僕はひとりぼっちになっていた。何日も何も食べたり飲んだりしていないせいか、壁を乗り越えようとも思えない。

 お腹が空いた……。みんなに会いたい……。

 ああ、また眠くなってきた。少し休んだらお母さんを呼ぼうかな……。

 

 どれくらい経ったんだろう。目を開けるとさっきまで近くにあった壁と空はなくなっていた。体が痛くない。ここはどこ?

 何?!背中に何かが当たって僕は臨戦態勢に入る。歯をむき出しにして喉を鳴らすってお母さんが教えてくれたんだ。

 おおい!何をするんだよ!僕の体が宙に浮く。ちょっと!降ろせよ!僕は怒ってるんだぞ!僕を持ち上げた正体は僕の体を満遍なく撫でる。頭、背中、足、お腹…ああ、気持ちいいかも。もうちょっと触って。

 っておい!何気安く触ってんだよ!……でも気持ちいい〜。そんなことよりここを出なきゃ!お母さんや兄弟を探さなきゃいけないのにこんなところで時間を食ってられないよ。

 僕は周りを見渡す。初めて見るものが多すぎてどこに行けばいいかわからない。もう少し歩いてみよう。宛もなく歩いてみると僕が見慣れた空の景色が見えた。あそこなら近そうだな。急ぐぞ!全力で足に力を入れて前へ進み出す。お母さん、兄弟、待っててね。いま会いに行くy…バーン!痛った!何!景色は見えるのに前に進めないよ!出して!僕はもう一度ここから出ようと体当たりをするけど結果は変わらず、おでこの痛みが強くなっただけ。もうお母さんと兄弟には会えないのかな。そう思うと今までの思い出が頭の中で再生される。美味しいミルク、また飲みたいなあ。お母さんに体をきれいにしてもらいたいな。ああ、そうか、僕は幸せになれずに死んでいってしまうのか。思わずその場で体を丸めてしまう。

 いつの間に寝たのだろう?僕はさっき体を丸めた場所とは違うところに寝ていた。でもなんだかいい匂いがする。そういえば僕お腹空いてたな。そう思っていると僕の目の前に何かが近づいてきた。なんだこれ!匂いを嗅ぐ。僕と同族ではない匂いがする。視線を上に上げると顔があった。もしかしてニンゲン?

 お母さんから聞いた話なんだけどニンゲンって意外とイイヤツが多くて僕が可愛いのをアピールすればかわいがってもらえるんだって!僕は座ってる状態からニンゲンにお腹が見える体勢に変えた。もしかしてさっき僕を撫でたのもニンゲンだったのかも。ささ、なでてご覧なさい。

 おお〜やっぱいいねえ。そうそこだよ。まるで僕のお父さんみたいだな。撫でるのが止むと同じ手で何か良い匂いがするものが口元に運ばれてきた。なにこれ。食べられるの?食べてもいい?恐る恐る口に含む。うっま!!なにこれー!もっと!もっと!

 このニンゲンいい人!それからこのご飯は1日に2回くらい僕の近くに置かれて僕はそれを食べた。パパさんは僕が食べるのをじっと見て食べ終わるのを確認したら僕を一頻り撫でて満足そうにどこかへ行くのだった。

 それから何日かすると僕は外へ出られるようになった。おでこをぶつけずに空の下を自由に歩ける。いいねえ。首になんか巻き付いてるけど。

 

 それから何日も何日もパパさんと遊んでご飯をたくさん食べて、外に出て歩いて、僕がこの生活に慣れてこの生活以外考えられないようになった頃、窓を見ると見覚えのある顔が1匹。

 兄弟!

 一度呼ぶと兄弟(らしきヤツ)はどこかへ消えてしまった。僕は兄弟に伝えなきゃいけないことがあるんだ。なぜか心臓がドキドキ鳴って、居ても立ってもいられなくなる。そうだ、兄弟を探しに行こう。今ならそう遠くにいないはず。兄弟と話をしたらまたここに戻ってくればいい。僕は窓の隙間に足をかける。重たい窓をスライドさせて頭が出る隙間になったら外に出よう。よいしょ。いつもは紐で繋がれているけど今は何にも囚われずにどこへでも行ける。兄弟を探そう。

 兄弟!兄弟!いつも行く公園には犬がたくさんいるからそこにいるかもしれない。僕は急ぎ足で向かう。いつも歩いてる道だから覚えてるよ。

 おい!

 えっ?突然大きな声で呼ばれた気がして振り返るとそこには兄弟の姿が。兄弟!

 久しぶりに会う兄弟の見た目は変わっていたけど優しさは全然変わっていなかった。

 僕は今ニンゲンのところで幸せに暮らしてるよ。

 そうか、俺も元気だ。母さんが死んでしまったからもう会えないのは寂しいけどな。

 お母さん、死んだの?!

 ああ、ずっと前にな。でもお前のことが大好きだって言ってたぞ。ほら、そろそろ行かないと飼い主さんが困るんじゃないか?

 あ、すぐに帰るって決めてたんだ!じゃあね、お兄ちゃん。また会おうね!

 おう。すぐに会えるさ。

 僕は兄弟に別れを告げて今来た道を引き返す。お母さん、死んでしまったんだね。もう一度体を舐めてもらいたいって思ってたよ。僕の言葉でさようならを言いたかったのに。もうそれはできないんだ。胸がきゅぅっと苦しくなって目からは涙が出てきた。パパさんにこんな姿見せられないからもう少し遠回りしてから帰ろう。

 ああ、兄さんにもお母さんにもまた会って一緒に遊びたかったなあ。

 いやいや、パパさんにもすごく感謝をしてるよ。死んでしまうかもしれないと思った僕を救ってくれたのはきっとパパさん。僕はパパさんにもっと恩返しをしなきゃいけない。

 だんだんと周りが暗くなってきた。急ぐぞ。美味しいご飯が待ってる。

 僕がお家に戻るとパパさんが心配そうに駆け寄って僕を抱きしめてくれた。パパさんのぬくもりに苦しかった気持ちが少しだけ軽くなる。

 勝手に出ていってごめんなさい。

 お母さん、僕は今とても幸せだよ。

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。コチラに後書きのようなものを書いてあります。よろしければどうぞ。